だし文化と浜弥の歴史
History
我々日本人が古くから親しんできた食材である「かつおぶし」
現代において「かつおぶし」が本来持つ旨さや栄養素をどれだけの人が知っているのでしょうか?
「かつおぶし」と言っても様々で、地方によってはその立ち位置も大きく違います。
特に関西と関東では、食文化や習慣など様々な違いがあります。
それは関東と関西でのだしの味の違いに密接に関係しています。
ではどのような違いがあるのでしょうか?
関西と関東でだしづくりに使われるかつお節の製法が違う
一般的に「関東は濃い味、関西は薄味」と言われており、実際に経験があるという方も少なくないでしょう。
関西と関東それぞれの発達を遂げた食文化。実は同じかつお節でも関西と関東では製法が違います。
関西ではカビつけをしないかつおの「荒節」が好まれました。
荒節は、焙煎の香りが残ってスッキリとした香りと酸味が特徴です。
一方関東では、江戸の中期頃からカビつけした「枯節」が好まれるようになりました。
枯節は、甘味があって上品な香りが特徴で、よりまろやかな味わいが楽しめます。
同じかつお節であっても、製法の違いで味わいに違いが起こります。
だしは日本料理の基本ですから、様々な料理に使われています。
だしに使う素材や製法が違うと、関西の料理と関東の料理にも違いが生まれるのです。
関東と関西の料理が違う理由は、だしの違いだけではありません。
家庭料理から外食の料理まで、料理の味付けにも違いがあります。
関西より関東のほうが「濃い味」の理由
関西の人が関東のうどんを食べて、色の濃さや味に驚いたなんて話は多く聞かれます。
一般的に関東のだしは色も味も濃く、関東では「つゆ」とも呼ばれます。
結論として、ベースのだしに醤油でしっかり味付けした「つゆ」を麺と絡めて頂く食文化が根付いている為です。
使われている醤油にも違いがある
関東のだしが濃いのは、味付けに使う醤油が濃口醤油というのも大きな要因です。
濃口醤油はどっしりとした味わいで、煮物から焼き物までしっかりと味付けしてくれます。
一方、関西のだしに使われるのは薄口醤油です。
香りを抑え、あっさりとした味わいが特徴的で、素材の風味つけ程度に使うという認識で薄口醤油を使います。
関東の「おつゆ」は
華やかなかつお節の香りが特徴です。
かつお節の香りにパンチがある為、
合わせる醤油も味が力強いものが選ばれます。
それぞれ強い風味があるものを組み合わせることで
旨味と香りに輪郭が生まれ、
素材にしっかりと味付けすることができるのです。
関西は昆布をメインに煮干しやかつおなどを
使った組みあわせのだしが特徴です。
あくまで「だし」の味わいがメインの為
醤油は風味つけに留めます。
その為、関東のうどんやおでんよりも
だしの色が薄く、豊かなだしの風味とともに
素材が持つ味を堪能することができます。
だしは関西・関東だけでなく、九州や北海道、日本海側の地域といった様々な土地で違いがあります。
これにはその土地の特産品などが影響しています。
その土地のだしは、それぞれの地域がもつ味の歴史が染み渡っています。
同じように思われるかつお節のだしでも、その味は千差万別。
旅行で現地を訪れた際にはその土地のだしにチャレンジしてみましょう。
ぜひ地域差のあるだしでお吸い物やうどんなどを食べ比べてみてください。
創業期
1950年代~
1990年代~
2010年代~
そして、現在~
創業期
(鰹節問屋の奉公から鶴橋市場へ)
1947年初代 木村三弥により創業
創業者 木村三弥は戦争より帰国後、鶴橋にて鰹節屋を開業。
三弥の本家は、京都亀岡にて醤油屋を営んでいた。
屋号の"浜弥"は、戦前奉公人として修行してた「ハマカツ」からの一文字と、自身の「弥」の組み合わせたものだという。
1950年代~
(人々が交差する街、鶴橋にて)
高度経済成長期に隆盛した
「鶴橋」という街。
ハマカツで学んだ乾物業のノウハウと、誰もが豊かな生活を夢見た戦後という時代と相まって、浜弥鰹節は当時関西の流通の中心であった鶴橋という地でその名の通り「折れて曲がる商売(儲かって仕方がない)」を実現したのであった。
1990年代~
(地盤を築き、それを二代目に継承)
創業者の意志を娘の幸子が受け継ぐ、
二代目としての覚悟。
創業から45年ほど経過した1990年初頭、創業者の突然の死のため二代目となった幸子は、夫が北部中央市場(㈱北鰹)で奮闘していたこともあり自ら指揮を振るうことで創業者の意志を継いだ。
妻であり母親であり、社長であるという多忙を極めた暮らしは並々ならぬ努力があった。
毎日茨木(自宅)と鶴橋を往復する二重生活の日々に、後に三代目となる忠司は子供心に「多忙な母親を早く助けてあげないといけない」という思いで幼少期を過ごしていた。
2000年代初頭~
(忠司、異業種からの参入)
創業者の孫
木村忠司が家業に入る。
大学卒業後に不動産業を学んだ木村忠司は、家業である鰹節屋を継ぐことは当初は考えももしなかった。兄がすでに母親のチカラとなり、奮闘していたこともあり「いつかは兄が継ぐのだろう」と思っていた。
今まで学んできた「営業」や「PC活用やデジタル化」「製造の効率化」が必要なタイミングで入社。
独自のバイタリティーで社業推進の為に、改革を遂行。
自らが広告塔になり、メディアへの発信や、HPや商品化など、邁進していた。
現在~
(祖父から母へ、母から子へ)
2010年~
木村忠司が浜弥鰹節の三代目へ就任
手軽で美味しい家庭向け調味料が溢れかえり、便利な世の中になっているこの時代にあえて本物の「風味」を多くの人に届けたい、手間がかかっても美味しくて健康に寄与する天然だしを子どもたちに伝えていきたいという思いから、先代である母親の協力の下に浜弥鰹節三代目を継承した忠司。
若い世代に交代したとあって伝統を守りながら革新を進めていくために様々な事柄にチャレンジしていく。述べ1000回を超える「食育&正しいだしの取り方講習会」や「鰹節の香りを科学する」という先進的なビジネスなどこれからも様々なトライアルに取り組んでいく。